6月3日(月)5限、3年生大雪クラスの労作です。
どれだけ私たちは草取りをすればいいのだろうか・・・
そんな声が聞こえてきそうなほど労作の授業では草取りをします。予定通り、指示通りに草を取り続けていたはずなのに、翌週にはまたいつも通り彼らはそこに生えてきます。あらゆることがマニュアル化され、教育も教科書というマニュアルに沿って行われていますが、自然にはそんなものは通用しません。予定通りに草取りをしていたとしても、それを上回るペースで平気で玉ねぎ畑をはじめ労作畑を侵食してきます。「自然」は予期しないこと、予想できないこと、予定通りにならないことが当然です。
解剖学者の養老孟子さんがされたお話でこんな話があります。解剖学を学ぶ医学部の学生が遺体の解剖実習に際して、教科書と内臓の配置が違うのを目の当たりにして「先生、このご遺体間違ってます」と言い放ちました。教科書通りになっていない、つまり教育の結果、「予期しないことに出会う」ということに対処できなくなっているのではないかというのです。もともと人間も自然の一部であり、予期しない他者の行動や言動など(これは特に私も教員をしていると強く感じますが)当たり前のもののはずが、実際は予期しえない物事に対処できない。そうしたことは不安だとか失敗したくないということから、人の行動にしても自然にしても人間自身でコントロールし管理し予期できない部分をなくしていこうという方向に向かっているのではないかと現代社会を養老さんは分析していました。
「痩せたい、ダイエットしなきゃ」という思考と夜中に背油とにんにくと野菜がたっぷりのったラーメンやらケーキをホールごとが食べたいという欲求が共存し葛藤できるという矛盾を平気で抱えることができる「心」を持つ、この生き物を管理などできるわけがないのに、その「心」の部分を疎外してしまっているのです。
偶然の出会いや予期しないものに向き合えないとなると、学ぶことも難しくなっていきます。「この科目の勉強って将来役に立ちますか?」「このトレーニングするとどうなりますか?」と問われることがありますが、正直やってみなければわかりません。プロゲーマーはゲームをしていない人間にとってはただのゲームが上手い人にすぎないけど、やったことがある人にはそのすごみが理解できるように、「とりあえずやってみる」という経験やそこでの学びの過程が世界を広げてくれるのだと思います。この予期せぬことに飛び込み世界の広がりを感じることこそが心の豊かさにつながるのかもしれません。
労作は「とりあえずやってみよう」がたくさん詰まった授業です。